Hug you/Bug you

 よくわからないが、戸籍謄本と住民票が取れるようになったのだ。生年月日、父母の氏名、そういうものたちがなんだか上等なペラペラの紙に印刷されてオレの手元に収まった。市役所の入り口で鳴っている誘導チャイムが遠くに聞こえる。
 長椅子に座っているピヨ彦の元へ戻ると、できた? と顔を上げて訊いてくる。おう、と答えて隣に座った。
「……なんで今まで不思議に思わなかったんだろうね、誕生日とか」
「あんま気にしてなかったからなあ」
 生年月日、父母の氏名、出生地、いろいろ訳がわからないものを眺めていると、本物なのか不安になってくる。ピヨ彦が同じように紙に目を落として、少し大きな文字で書かれている「ジュン市」を指でなぞった。
「変な名前」
「は?」
「ほんとにカタカナなんだね」
「ピヨ彦だって変な名前だろ」
「それはジャガーさんが勝手につけたんでしょ」
 あっ、そうか、と思った。もうオレにとってはピヨ彦はピヨ彦なのだった。十年も呼び続ければそうなるのは当然のことだ。
「せっかく戸籍謄本手に入れたんならさ、パスポートでも取ったら」
「パスポート?」
「本人確認書類にもなるし」
「あー……」
 ピヨ彦が立ち上がって、抱えていたボディバッグを肩に掛け直した。
 ゆっくりと歩き出す。お腹減ったね、どこか行こうか、と小さい声でピヨ彦が言った。
「オレ、海外行きたいかも」
「……へえ、どこ行きたいの」
「いや、わかんないけど……ピヨ彦、ピヨ彦も一緒に行こう」
「場所によるけど……ちょっとはお金も貯まってるし、二、三泊なら」
「いや、住む」
「住むの!?」
 ピヨ彦が歩みを止めて、オレを振り返り見る。眉間がぎゅっとなっている。
「や、ちょっと……勇気いるよ……、言葉だってわかんないし、」
「大丈夫だろ」
「いや、…………」
 合っていた目線が逃げていく。あっ、これは追ったらダメなやつだ、と思った。いくらピヨ彦が押しに弱いといったって、本当にダメなときはすぐにわかる。そんな時はオレだってすぐに引く。
「わかった、やめとく」
「あっ、ちが、違くて……」
 ピヨ彦が一瞬こちらを見て、俯いた。唇をほんの少し噛んで、ボディバッグの肩ひもをぎゅっと握った。
「ジャガーさんは、」
「…………うん?」
 ピヨ彦の声に耳を澄ませると、誘導のチャイムがさっきよりも遠くに、長く聞こえるようだった。
「ジャガーさんは、……好きなとこ、行きなよ」
 薄っぺらい紙を持つ手が冷えていく。オレはどこで間違ったんだろう。ピヨ彦がもう一度オレの顔を見て、焦ったように話し始めた。
「あ、あの、違う、そうじゃなくて、勝手にしてってことじゃなくて…………」
 ひそめていた眉が今度はハの字に曲がる。そんな顔が見たい訳じゃない。ピヨ彦のそばに寄って、手のひらで背中を大きく叩いた。ピヨ彦がよろける。痛いんだか悲しいんだかわからない顔で、ピヨ彦はオレを見た。
「ジャガーさん、」
「わかった、オレがいろんなとこ行って、慣れたらピヨ彦を連れてってやるよ。どう?」
「……うん、わかった」
 市役所の玄関へ足を進める。屋内の蛍光灯に慣れた目に、太陽の光が眩しい。屋根もない簡素なバス停を睨んでいると、ピヨ彦がオレの脇腹をつついた。
「あの……さ、急に海外に行くとかは難しいけど、なんか、やりたいことあったら言ってよ。誕生日もあんま祝えてないし」
「…………」
 ピヨ彦のボディバッグ、チャックの留め具に手を掛けて、ゆっくり引き下ろす。ピヨ彦は何も言わずにそれを見ている。そこからピヨ彦の財布を取り出して中身を見ると、ちょっと呆れたような顔をした。
「欲しいものでもあるの」
「ん~……」
 そうだ、オレは二十歳になった。
「オレ、酒飲んでみたいな、ピヨ彦買って?」
 ちょうどよくバスが来て、ちょっと跳ねるように乗り込んだ。ピヨ彦が追いかけて来ながら「しょうがないなあ」と言った。嬉しかった。

 それから陽が落ちて、不思議なことが起きている。
 あの後スーパーで酒とつまみを適当に買い込んで、ガリ寮に帰った。いつもの通り風呂に入って、ダラダラして、軽く飯を食って、じゃあ飲んでみますかと缶を開けた。ビールってお茶みたいなもん? だとか、酎ハイはちょっと変な味のするジュースだね、なんて言いながら適当にテレビを眺めていた。オレはそこまで酔わない体質だったようで、ちょっと暑い気がするな、と思ったぐらいだったが、ピヨ彦はなんだかだんだん口数が少なくなって、今は、
 机の上で、缶を持っていないオレの左手をずっと握っている。
「ピヨ彦、酔った?」
「………………」
 何も言わない。少し伏せた目は上がらずに、じっとオレの手の甲を見ている。たまに小さく力が入って、オレの束ねられた指を締め付けた。酒がまわっているのか、いつもよりぬるい体温が気になる。
 今すぐこの手を振り解きたい。好きなやつにこんなことされて辛くない訳がない。
 指を伝う脈拍を悟られる前に、冗談っぽく握り返してあやすように揺らした。
「なに、ピヨ彦って……酔うとそんなんになんのかよ」
「何が」
「くっつきたがりっていうか……ハグ魔っていうか……ハハ」
 なんていうんだ、この場合、手繋ぎ魔? ふふ、なんて揶揄うように言うと、やっとピヨ彦がこちらを見る。ちょっと怒ったように、ほんの少しオレを睨む。
「そうかも」
「えっ?」
 ピヨ彦の身体がにじり寄ってくる。胡座をかいているオレの左腿にまたがるようにして近づいてきて、オレを斜め上から見下ろした。逆光になった明かりがピヨ彦の表情をわかり辛くしている。服の間の温い空気を押しつぶすようにして、ピヨ彦が、オレに抱きついて、隙間がなくなった。布越しの熱さと薄い肉の柔らかさとその奥にある骨ばった身体が、ぎゅっとオレにしがみついて、様子を見るように段々と重くなる。酒を持っていたはずのオレの右手は、いつの間にか縋るように机の端を掴んでいた。
 ピヨ彦、と小さく声をかけると、腕の力が強くなって答えた。さっき指を振り解きたいと思っていた心はどこかへ行ってしまって、ただ脈拍だけが大きくなって何も考えられなくなった。どうすればいいのかわからなくなって、ピヨ彦の背中に手のひらをあてると、そこはびくっと震えた。ゆっくり撫でる。お互いに何も言わない。ただ酔っているだけなのかもしれない。きっと。
 ピヨ彦は頭をオレの肩に乗せて、ぐりぐりと額を擦り付けてきた。ピヨ彦の身体はどんどん重くなって、オレの身体を斜めに歪ませる。緩く揺らしてもなんの反応もない。頭を支えながら、ゆっくりとピヨ彦の身体を畳に横たわらせてやった。
 覆い被さったまま、おでこのあたりを柔らかく撫でる。目を閉じたままのピヨ彦を置きざりにして、布団を敷いてやる。そこへピヨ彦をごろごろ転がして、毛布をかけた。
 ピヨ彦はずっと目を閉じたままでいる。酔うとこんな風になるのか、と思った。寝たふりでも、別にいいと思った。

 それから何日か経って、オレはパソコンで地図をぐるぐるとこねくり回しては行きたいところに目星をつけた。海外旅行の難易度なんかを見てみたり、日本からの距離を測ったり。それで、まずはアジアだな、と思った。初っ端からピヨ彦の元に戻れなくなっては困るからだ。
 ふう、と息をついてパソコンを閉じ、ひとりきりの部屋を見渡す。もうすぐ日が暮れますよという感じに、ベランダから入ってくる光が少し橙色になっている。ピヨ彦はバイトに行っていて今はいない。オレが着々とパスポートや何やらの準備を進める中、ピヨ彦はバイトに行ったりギターの練習をしたりしなかったり、普段通りの暮らしをしている。
 ただ、酒を買ってくるようになった。そして酔ってきただの何かと理由をつけてはオレにしがみついてくる。
 背中をべったり畳につける。目を閉じると脳が勝手にピヨ彦のことを思い出して、抱きつかれたときに密着する箇所がじわっと熱くなるような気がした。最近のオレはピヨ彦のことばっかりだ。もうそろそろバイトが終わって帰ってくる時間だ。
 最近、何時ぐらいに帰ってくるのかピヨ彦に訊くと、前より少し遅い時間で返事をする。迎えに行ってやろうか迷う。でもなんだか背中が畳から動かなくなっていて、オレは両手を横に投げ出してそのまましばらくじっと目を閉じていた。今日の飯なにかなあ、とか、今日の入浴剤はなんの匂いかなあ、とかいろいろ考えていると、オレはいつの間にか眠ってしまっていた。
 目を開けると部屋はすっかり暗くなっていて、視線を窓に向けると夜になりきっていないグレーの空がほの明るかった。ピヨ彦が帰ってきていないのがおかしい。と思うと同時に、身体が上手く動かないのに気付いた。肩が重い。身体の半分に、何かがへばりついている。柔らかな黒い毛がオレの頬に触れていて、伸びた腕はオレの脇腹に回されている。
 オレはもう、野生動物を追うカメラマンのような気持ちになって、気づかれないように、緊張を悟られないように、さっきまでと同じような静かな呼吸を続けた。何なんだ、何なんだよ、コイツ。酔ってないくせに、抱きついてくるなよ。どういうつもりなんだ。
 オレより体温の低い身体が、オレの熱を吸収して、反射して、くっついたところが柔らかく熱い。かすかに鼻から入るピヨ彦の匂いに、脳が溶けるんじゃないかと錯覚する。
 多分、ピヨ彦が帰ってきて、オレが寝ているのに気付いて、物音を立てないように近づいて、オレを起こさないようにそっとくっついた。疲れていたのでそのまま寝てしまった。そこまで考えてオレはもう何だかたまらない気持ちになって、何かをコイツに返してやらないと気が済まなくなってしまった。顔を傾けてピヨ彦の髪に顔を埋める。シャンプーだって一緒のものを使っているはずなのに、妙に心地いいのが不思議だ。
 それからオレは、当然のことのようにピヨ彦の方を向いて寝返りを打った。ピヨ彦の身体が、びくっと震える。起きてるな。オレは寝てるよ。オレは今すっかり寝ているけれども、無意識でこんなことをしてしまうくらい、お前のことが好きだよ、そんな気持ちが伝わってほしくてピヨ彦の身体に腕を回して、半分覆いかぶさるように体重をかけた。ピヨ彦の肩は力が入って、オレに押し潰されないよう耐えている。服の布越しに伝わる体温がじわっと上がって、なんとなく湿度を持ったような気がする。熱い。オレの身体も緊張しているようでじっとりとした熱を持った。
 すると、ピヨ彦はもぞもぞと身体を動かし始めて、オレの腕の中から頭を引き抜いた。オレが喪失感にショックを受ける間もなく、立ち上がって蛍光灯の紐を二回ひいた。ピヨ彦がいなくなった隙間分、倒れ込んでうつ伏せになってしまったオレをじっと見た後、踵を返して玄関にある買い物袋の方へ向かっていった。
 えっ、本当に何なんだよ、コイツ。オレのこと好きじゃないのかよ。
 板張りの床を小さく軋ませるピヨ彦の足。アキレス腱のスジ、ふくらはぎ。視界に映るものではピヨ彦が何を考えているかわからない。野菜を切る音、トレーからラップを剥がす音がして、しばらくすると安い肉が焼ける匂いがした。そういえば朝、何が食べたいか訊かれて肉と答えたのだった。

「ジャガーさん、ご飯できたよ」
 オレの気持ちも知らないでピヨ彦が肩を揺すってくる。ぎゅっと眉間に皺を寄せて唸って答えて起き上がると、机の上には肉野菜炒めが置かれていた。ピヨ彦はなんでもないように白飯の入った茶碗と箸を二つ机に続けて置いた。野菜炒めは何の変哲もない醬油味で、さっきの距離とか体温だとかがなんだか夢だったように感じた。

 椀に残った米を寄せて、口にかき込む。ふと、玄関の三和土の近くに中身がほぼ空のレジ袋の横に、たまにしか見ないエコバッグが置いてあるのに気付いた。
「……ピヨ彦、あれ何」

 食べ終わった食器を重ねて洗い場に持っていきながら、ピヨ彦はまたなんでもないように言った。
「あれ? 笛」
「あ?」
「珍笛」
 黄色いエコバッグをピヨ彦が持ってきて、オレの前に置いた。覗いてみると、確かに笛が何本かと、一見笛には見えないものがいくつか雑多に入っていた。ピヨ彦はまた洗い場に戻って、さっき使った皿を水に浸している。
「ハメ次郎の新作?」
「や、僕が作った」
 ピヨ彦が何を言っているのか理解できずに、皿を洗い始めた背中をじっと見る。ピヨ彦がちらりとこちらを振り返って言う。
「見ていいよ」
 一つずつ手に取る。犬のフィギュアに穴が開いている犬笛。飴でできた甘い笛。穴を塞いでいくごとに高い音が鳴る逆笛。他にもいろいろ転がり出てくる笛を眺めたり小さく吹いてみたりしていると、皿洗いを終えたピヨ彦がオレの方に近づいてきて、「どう?」とだけ言った。
「……待ってくれ、これ、音程がちゃんとしてる。えっ、ピヨ彦お前、これ、吹いたの? オレのいないとこで?」
「吹いてないよ、掃除に使うブロワー改造して空気送り込んで確かめてる」
「そっちのが手間だろ! なんで、お前、こんなこと、急に」
 ピヨ彦は、ぼんやり天井を見ながら「小遣い稼ぎかなあ」と言った。その後オレに視線を戻して話し続ける。
「なんか、お金稼ぐのに一番楽かなって思ったんだよ。その笛、五個ずつ作ったから。袋に入ってるやつはジャガーさんにあげるね。あとは店に並べてあるけど、ジャガーさんは買っちゃだめだよ。意味ないから」
 オレが何か言い返そうとしている間にピヨ彦は立ち上がって風呂場へ向かった。蛇口からお湯が勢いよく落ちる低い音を遠くに聴きながら、オレは「だから最近帰ってくるのが遅かったのか」と思った。

 酒の入った場特有のでかい喋り声、ジョッキのぶつかる音、店員がバタバタと動き回る音を聞きながらオレは少し上の空でそふとくり~むの面々の話を聞いている。
 どうやらオレが海外に行く話をピヨ彦がポロっと溢したらしく、ケミおが慌てた顔で家に転がり込んできたのが数日前のことだ。送別会を開かなければとか言っていたが、こいつらはただ理由をつけて飲みたいだけだ。現に今日だって最初の方はオレがどこに行くだとかいつ戻ってくるかとか話していたが、今は「結婚するならこんなタイプの人がいい」だとかのどうでもいい話ばかりしている。
 せっかくだからふえ科と合同で、ということでハマーや高菜君、しゃっくもいる。しかし誘導されるがまま席に着くと、自然とそふとくり~むとふえ科に別れて座ってしまい、おれはそふとくり~むの奴らに囲まれてしまった。
 オレはずっとピヨ彦のことが気になっていて、酒を飲んでいないか、飲みすぎてはいないか、飲んで誰かに絡んでいないかなんてことを考えてはピヨ彦の方向ばかり見ていたが、ピヨ彦とは間に二人挟んでいるうえにオレの隣にでかい柄沢がいるので姿が全く見えなくてイライラする。
 ちらちら様子を伺っていると柄沢が気まずそうに口を開く。
「あの……お手洗いなら、向こうにありますよ。ちょっと廊下みたいになってて、奥まってるところなのどぇすが……」
 別にトイレに行きたいわけではなかったが、オレは小さく頷いて席を立った。通りかかる時、ピヨ彦の手に持っているグラスに何が入っているのか見ようとしたが、中身まではわからなかった。立ち止まって覗き込むのも変だし、一緒にトイレに行こうだなんて言うのもおかしい。オレは女子中学生ではない。

 用を足して、水を流した後に便器に腰掛けた。どうにかして席を移動してピヨ彦の隣に座れないだろうか。いや、きっとアイツは他のやつに抱きついたりはしないだろうが、でも、ああ、くそ。膝の上で腕を組んで、じっと思考を巡らせる。ふと顔を上げると、ドアや壁に、半紙に書かれた変な標語が貼ってあることに気が付いた。
「お客様は神様です。」「トイレには神様がいます。」矛盾……してないか。オレが神様なのか。「しあわせはいつもじぶんのこころがきめる」これ、大丈夫か。勝手に書いてあるけど。
 すう、と息を大きく吸う。甘ったるい紫色の芳香剤の匂いは全然すっきりしなくて、そのまま溜息になって出てきた。そろそろ戻らないと不自然だろう。立ち上がって背伸びをする。小さくて使い辛い蛇口から出てくる水を手で受けると、頭も少し冷えた。ピヨ彦の隣に誰がいようと、割り込む。そう決意をしてドアノブに手をかけて回した。
「あっ……、」
 ずっと考えていたやつが、ドアの向こうにいた。
「なんだよ、びっくりした……」
 ピヨ彦も驚いたようで、普段よりほんの少し目を丸くしてオレのことを見ている。血色のよくなった頬に視線を滑らせるとなんだか触れてみたいような気持ちになったが、目を逸らして耐えた。なんでここにピヨ彦が、そう思ったところで、オレがトイレの前に立ち塞がっていることにようやく気づいた。
「あ……ごめん、順番……待たせただろ、ごめんな」
 逃げるように身体をずらして、トイレの順番を譲る。早く戻ってピヨ彦の隣の席を確保するか、いや、ここは戻ったふりをしてピヨ彦を逆に待って、一緒に戻って、なんてことを廊下の木目を見ながら考えていると、後ろから息を飲むような音がして、オレの服の袖がぐっと引っ張られた。
 振り向くと、さっきよりも顔を赤くしたピヨ彦が掴んだ自分の手をじっと見ていた。じわりと白眼が充血して、下まぶたの縁がぎらりと光って見えた。
 次の瞬間、オレはピヨ彦の肩を掴んでトイレに押し込んだ。後ろ手に鍵を閉めて、掴んだままの肩を壁に押し付ける。追い込まれたピヨ彦の額に、小さく話しかける。
「ピヨ彦……」
「…………」
「オレのこと、待ってた?」
 ピヨ彦は何も答えない。ただ、小さく開いた口から吐息が漏れて空気を震わせている。それだけで全部わかったような気がして、数ミリだけオレからピヨ彦に近づいて言った。
「……いいよ、おいで」
 ピヨ彦は小さく唇を噛んで、息もしなくなって、少しだけ俯いた。ゆっくり、身体を壁から浮かせて、腕をオレの身体に沿わせていく。オレの肩に顔を埋めて、止まっていた息がだんだんとしゃくりあげるような呼吸に変わっていった。オレも抱き返して、ピヨ彦がこちらに来た分ちょうどを押し返してまたピヨ彦を壁にくっつけた。オレの指先が壁とピヨ彦に挟まれて、貼ってある紙がぐしゃりとヨレる音がした。「しあわせはいつもじぶんのこころがきめる」が、手の甲に当たっている。
 多分、オレはオレのやりたいことをするべきだ。ピヨ彦も、多分やりたいことを、自分がいいと思うタイミングでするべきなんだ。多分、きっと、オレとピヨ彦なら、いつかまたそれが重なるはずだ。肩が湿っていくのを感じながら、そう思った。
 ゆっくりピヨ彦の背中を撫でると、それに合わせるように呼吸が落ち着いていく。
「ごめんな、ピヨ彦、オレ、やっぱり行くけど、」
「いいよ、好きなとこに行って、好きなことしなよ。僕、僕さあ、ここでちゃんと待ってるから」
「ピヨ彦、」
「それで、それでさあ、僕、笛、作るよ、吹かないけど……。お金貯めて、それで、それでいつか、」
 オレの背中の服を掴む力が、ぎゅっと強くなる。ぶり返してきた寂しさが、もう一度ピヨ彦の顔をオレにくっつけた。
「大丈夫、大丈夫だよ、オレも絶対戻ってくるから」
「…………」
 ピヨ彦の背中をゆっくり撫でる。苦しそうな息がまたほんの少しゆっくりとしたリズムになったのを見計らって、ホルダーからトイレットペーパーを引き出す。適当にちぎって渡すとピヨ彦はそれで鼻をかんだ。ガサガサの紙が、ピヨ彦の鼻の下を赤くした。
 すっ、と息を吸ったピヨ彦を見て、オレは「帰っちゃおうか」と言った。
「なに言ってんの、主役が」
「ピヨ彦、好きだよ」
 ピヨ彦の手首を引っ掴んで言う。脈絡のないオレの告白に、ピヨ彦はまっすぐの視線で返した。
「……知ってるよ」
「ピヨ彦は? オレのこと好き?」
「わかってるでしょ、そんなん」
「わかんない」
「…………」
「な、帰ろ、一緒に。やっぱりピヨ彦とだけ一緒にいたい」
 ピヨ彦がトイレットペーパーを便器に投げる。オレが水洗のレバーを上げて流すと、ギリギリ聞こえるくらいの声で「帰る」と答えた。もう一度壁に追い詰めて抱き寄せようとすると、「また泣くからやめて」とだけ言われた。しょうがないやつだなあ、と思って鼻で笑うと、ピヨ彦もばつが悪そうに俯いて笑った。

「わっ……」
 トイレのドアを開けたらまた人影がいて、オレたちの身体が跳ねた。しゃっくだ。
「えっ、あ……どうされたんですか、お二人……」
「ああ、いや……」
 目の赤いピヨ彦を背中で隠して、ほんの少し考えて口を開いた。
「…………オレたち、ちょっと帰るから!」
「えっ!?」
「ピヨ彦が吐いちゃってさ、体調心配だから、帰るから! あ、オレ達の分のお代って、」
「ああ、えっと……ジャガー先生は今日主役だし、大丈夫なのでは……ピヨ彦さんは始まる前に高菜さんに渡してましたよね?」
 ピヨ彦が背後でこくこくとせわしなく頷く。
「あ、そう! 悪いなあ、なんか! それじゃ!」
 ピヨ彦の背中を押しながら細い廊下を進む。
「ピヨ彦、先、出てて。上着……なんか着てたよな? オレ、ちょっと取ってくるから」
「あ、……うん……」
 席に戻る。ハマーとしげみちがお互いをひっつかんでいるのが目に入ったが無視して、ピヨ彦の上着を椅子の背もたれから取った。ただ一人正気を保っているらしい高菜君に「ごめん、今日はちょっとピヨ彦と一緒に帰るから」と言うと、高菜君は右手を上げて答えた。どうやらこの後どちらの方がよりブタなのか決めるようだ。
 早足で店の出口に向かう。待っていたピヨ彦に上着を差し出す。
「ねえ……僕が、吐いたって」
「しょうがないだろ、そう言うしかなかったんだから」
「いや、僕、今日烏龍茶しか飲んでない……」
「えっ」
「どうすんの、不動くんの席僕の真ん前だよ。絶対変に思ったって」
「だってお前、あんな顔真っ赤にして、」
 す、とピヨ彦が息を吸って、何か言いだそうとして、細く息を吐いた。小さく「行こ」と言って、飲み屋の暖簾をくぐって出ていく。追いかけて外に出ると、店の中より冷たい空気が頬を撫でた。
「コンビニ行ってさぁ、アイスでも買うか」
 ピヨ彦が小さく首を振る。まっすぐ帰るか、ともう一度訊くとまた小さく首を振った。
「なに、どうしたいんだよ」
「……アイスじゃなくて、シュークリームにする」
「あは、」
 ほんの小さな我儘だ。オレに行かないでくれとも言わず、ただじっとそこに立っている。「行こうぜ」と声をかけて手に触れると握り返してくる。人通りの多い道に出るまで、手はずっとそのままだった。

 家の近くのコンビニの自動ドアをくぐる。コンビニスイーツの棚を二人で見た。というのは嘘で、オレはピヨ彦のつむじを見ていた。ピヨ彦がシュークリームをかごに入れる。オレはピヨ彦を見ていたのがばれないように「オレもこれにしようかなと思ってた」なんて言って、同じものを掴んでかごに入れた。ピヨ彦が飲み物の棚に向かうのでついて行く。ミルクティーをかごに入れた。オレが「酒は?」と聞くと、「しばらくいらない」と首を振りながら答えた。
 それから適当な菓子をかごに入れまくって、レジに向かう床の矢印を追う。ふ、とオレが立ち止まって、ピヨ彦がオレの背中にぶつかった。
「何、どうしたの」
「ピヨ彦、あれ……」
 視線をレジの奥に向ける。
「煙草、吸ってみたい」

 煙草とライターが追加された会計が告げられる。オレが懐から金を出そうとするとピヨ彦が割り込んできて財布を開き、全部払った。
 自動ドアを出て、駐輪場の一角にある灰皿へ足を進める。レジ袋から煙草を出して、紙パックをこじ開けた。
「そんな金使って大丈夫なのか、貧乏なのに」
「笛が売れたんだよ」
「え?」
「値段付け間違えて、ゼロ一個多くなっちゃってたんだけど、なんか売れた」
「は~……」
 ライターの火を差し出してくる。
「……なんか、大人になったのかなあ、オレも、ピヨ彦も…………」
 煙草の先端をくっつけて、息を吸った。じり、と赤く火がついて、今度はピヨ彦に煙草を渡して同じように火をつけてやる。二人で一緒に、ゆっくりと煙を吸い込んだ。
「…………」
「………………」
「ダメだ、あはっ、ふふ、全然わかんない」
「喉がチリチリする」
 熱い副流煙が鼻を掠めて、顔を顰める。それを見てピヨ彦がまた笑った。
「なんか、あー……思ってた大人って、全然なれないねえ」
「な、大人ってもっとちゃんとしてると思ってた、オレも」
「煙草も吸えないし、……」
 不自然な間が空いて、オレはピヨ彦を見る。コンビニの白い灯りがピヨ彦の頬を照らしている。見えにくい、見えにくいけれど、顔が赤い。
「…………好きな、人の、やりたいことの、邪魔もしちゃうし」
 指に煙草を挟んだ手が、ピヨ彦の口元を覆い隠している。ピヨ彦がすう、と息を吸うと、煙草の先端がまた赤くじりじり燃える。
 持ち手の部分をつまんでピヨ彦の口から煙草を抜き取ると、ピヨ彦が「あっ」と声を漏らした。自分で咥えていた煙草とまとめて、灰皿に入れる。呼吸が上手くいかなくて咳き込むピヨ彦の背中に手を当てた。
「ピヨ彦、お前、オレがいなくなってさあ、オレとキスできなくてさあ、口寂しいからって煙草ハマるなよ」
「はあ? 何言ってんの、したことないのに」
「バカだな、家帰ったらするんだよ」
 固まってしまったピヨ彦のつむじを上から見ていると、無言になんだか耐え切れなくなって、家の方向に足を動かす。今なら、今ならきっとついて来てくれるはずだ。一歩一歩足を進めるたびに少し不安になる。大丈夫、大丈夫、きっと。後ろで聞こえる小さいピヨ彦の足音がだんだん大きく、早くなる。ドンっと衝撃がして前につんのめる。ぐっと背中に押し付けられたものがピヨ彦の口であるということはすぐにわかった。