2022年11月15日 しんでるにんげんなんか、こわくないさ / 泣けない子

秋晴れというのに相応しい天気で、空が高い。バイト終わりの頬を風がさらりと撫でる。どうしても立ち仕事なので疲れる。今日はゆっくりお湯に浸かろう、とピヨ彦は思った。
さっきから隣を歩いているジャガーが、ピヨ彦の足元ばかりを見ている。ピヨ彦も気になって見てみるが、何かゴミを踏んでいるわけでも靴紐が解けているわけでもない。ピヨ彦が足を止めると、ジャガーも立ち止まった。
「なに、どうしたのジャガーさん」
「ん〜……」
ジャガーがしゃがみこんでピヨ彦の左脛を見つめる。なんとなく足にじっとりと汗をかいた。
「なんでもない」
ジャガーが歩き出す。汗のせいか、ズボンの生地が足に張り付いて嫌な感じがした。歩きにくい。
「ごめんやっぱなんでもあるわ」
数歩先で振り向いて、ジャガーが再度しゃがみこむ。
「なに?僕の靴に何か……」
「ごめんこのお兄さんオレのなんだ、ほんとあげらんないの、ごめんな」
「……え?」
「ちゃんとおうちに帰りなボウズ。家どこだ?」
「…………」
「優しそうに見えるけどこいつ結構怒ったらこわいんだぞ」
「……ジャガーさん」
「イヤイヤじゃないんだよ、このお兄さんはあげらんないの」
「……誰と話してるの」
「…………」
「ジャガーさん」
「なんでもない」
「いや今更無理だよ」
「なんかくっついてきてんの」
「は」
「待ち合わせの時にはもういたんだけど、流石に家までついて来られると困るだろ」
ええ、と思うのと同時にズボンの張り付きが太腿まで上がっているのに気づく。汗が冷えて気持ち悪い。自分で見ても全くわからない。
「神社寄って置いていこうぜ」
「……家、この辺なの」
「おい優しくすんなよ」
「ええ、でもなんか、ほっとけないよ」
「ピヨ彦お前そういうところだぞ」
あ、と喉から声が漏れると、ずるりとした重みが背中を擦る。足に血が通うようになって、ピヨ彦は「歩ける」と思った。ジャガーに目を向けると、眉間を寄せて「今回だけだからな」と言った。

3人で町内をふらふらと歩く。入ったことのない住宅街の路地を一本一本なぞっていく。途中、犬にものすごく吠えられた。そもそもどこの子なのかもわからない。というか顔すらわからない。背中に響くしゃくりあげるような振動だけがピヨ彦を突き動かしていた。日が落ちていく。
「泣かないでよ……」
顔すら見えないのに、ピヨ彦はそう呟いた。
街灯を頼りに、小道に入る。ぐっと右肩が重くなって、よろめくピヨ彦の手をジャガーが繋ぎ止めた。
「行こう」
もうほとんどの家に灯りがついていて、2人の頬を橙色に染めた。一つ、二つ、戸建ての家を通り過ぎる。三つ、四つ、五つ。そこには灯りのついていない家があった。なんの変哲もない、隣の家と似た造りのそれだけが異様に思えて、足を止める。背中からずるりと「何か」が落ちた。新聞が溜まっている。
もう一度何かが背中に触れて、肩がびくりと跳ねた。それはジャガーの手で、温かかった。
「帰ろう、ピヨ彦」
何も言わず頷いて、家の方向に足を向ける。靴とアスファルトが擦れる音だけが響いていた。
家に帰ると、ジャガーが「待ってろ」と言って珍しく袋のラーメンを作ってくれた。塩だった。ず、とスープを啜ると、ぼろぼろ涙が溢れた。
「大丈夫、大丈夫だから」
半ば強引に押し込まれた風呂から出ると、ジャガーが電話をしていた。どうしたの、と聞くと、ちょっと警察、とジャガーが答えた。

次の日、バイトが終わると花屋の前を暗い色のバンが通り抜けた。ピヨ彦は振り向いて、やく丸に話しかける。
「これ、ひと束買ってもいいですか」
「え?ああ、いいけどどうするんだい」
「家に飾ります」
「家に飾るんなら、もっとこういうやつの方がおすすめだよ」
「いや、いいんです、これで」
右手にトルコ桔梗とスプレーマムが揺れる。足には血が通っていた。