一
ほんの少し昔、遠い国のそのまた向こうにある島国の端。その小さな村では人々が慎ましく暮らしていた。農場と畜産を主な生業として、争いもなく、豊かな時が流れている。
その村には古くから伝わる警告がひとつ。
【西の森には近づかぬように】
村の西側には鬱蒼とした森があり、その先の山の中腹には洋館の屋根が尖って顔を出していた。煤けた暗い煉瓦色、手入れされていない蔓植物が張り巡らされているそれは人々を恐れさせるには十分だった。
教会の礼拝堂、入って西側のステンドグラスにもその洋館は描かれている。ぐらりと燃えるように赤い空を背にして描かれた洋館のそばには、角の生えた、恐ろしい顔の男がひとり。
教会に仕えるシスター、清彦は村の子ども達を諌めるために、この悪魔の存在の話をよくしていた。いつも優しいシスターが「いたずらをすると悪魔に連れて行かれる」「きちんとおつとめをしないと悪魔が夜毎枕元に立って顔を覗き込む」と話をすると子ども達は震え上がり、熱心に、真面目に日々を過ごすようになるのだった。牧師である浜渡の言うことは一向に聞かなかった。
そもそも清彦がそんな話をするのも、先代のシスターからその話を聞かされて育ったからである。悪魔に対する恐怖心とともに信仰心は篤くなり、先代の引退とともに村でいちばん真面目な者として選ばれ、シスターとして毎日教会で人々を支えていた。
清彦は夕暮れ時になると、ぼんやりと礼拝堂に佇むのが癖になっていた。赤い陽の光がステンドグラスの一角をより一層照らしているように見える。真面目に生きてきた清彦にとって、それはなぜか一時の楽しみのようになっていた。
酒、煙草、性、悪魔。
自分と縁遠いもの達が、何か自分の人生を変えてくれやしないだろうか。
そう思いながら視線を落としても、礼拝堂の長椅子は何も変わらずに整然と並んでいる。
「清彦殿、ちょっといいでござるか?」
「わ、ああ、なんですか」
入り口の扉のそばに浜渡が立っている。数年前にニンジャに憧れ出してから妙な言葉遣いをするようになった。
「今度のハロウィンについてでござるが……」
「ああ、宗派としては……ですけど、イベントとしてはやらないわけには」
「うんうん、夕方に子ども達が仮装をして来てくれるから、そのためのお菓子を用意しないと」
「仮装は楽しみです。みんな可愛いんだろうなあ」
「うん、それと……」
「何ですか」
「あの、笑わないで聞いてほしいのでござるが……」
「……はい」
「拙者が、今朝、見た夢で、」
「笑わないっていうか、つまんないやつなら帰りますけど」
「あー帰らないで! いや、ちょっと心配なことがあるんだ……」
浜渡が真剣な顔をして引き留めるので、清彦も足を止める。
「夢の内容は、もうぼんやりしているのでござるが、起きた瞬間、ああ、この村の歴史書を読み返さないとって気分になったんだ」
「珍しいですね、浜渡さんが文献を読むなんて」
「これ、なんだけど……」
浜渡が後ろ手に持っていた分厚い本をめくる。
「【悪魔】の欄、」
清彦はなぜかドキリとした。先ほどより夕焼けの光が強く差し込み、礼拝堂全体を赤く染めている。
「なんて、書いてあるんですか」
【西に棲む悪魔は千年に一度、雪が降る前に、贄を求めて降りてくる】
浜渡が指さした内容はこうだった。拍子抜けした清彦が浜渡を睨みつける。
「……これが何なんですか、いつも子どもたちに話してることですけど。ちょっとした昔話でしょ」
「違うんだ、清彦殿、この、ページの下のところ、ほら、見て」
ちょうど今から千年前の暦とともに、10月31日、と、掠れた殴り書きのような文字が這っていた。
「…………」
「………………」
「ちょうど千年前に、何かがあった……」
「そう、そうとしか思えなくて……」
「もうじき、何かが起こる、」
「なにか災害のことを【悪魔】と表現しているのかもしれないけれど、……用心しておくに越したことはないYO」
「……そうですね」
「最悪の場合、本当に、あの洋館に悪魔が棲んでいるのだとしたら」
「……そんなこと、ありますかね」
「可能性は低いけど、それも準備をしておこうと思うYO」
「準備って、聖水とか、十字架とか?」
「それが、悪魔について調べても……そういうのが効いたって記述が無いのでござる。むしろ何もできずに贄として村人を取られた、と」
「…………」
「もっと遡って悪魔についての記述を集めるYO……しばらく、拙者は書庫にこもらせていただくでござる」
太陽はもう沈んでしまったようで、あたりが薄暗い。
「……わかりました。子ども達に配るお菓子は僕の方で用意します」
村人が贄に取られるなんて、とんでもない。なんとしても阻止するしかない。
でも、もし、本当に悪魔があの洋館に棲んでいるのなら、
見てみたい、なぜか清彦はそう思った。
二
油断をしてしまった。地面に押し付けられた身体。背中に指先が食い込んでいる。ギリギリと押しつぶされる肺から喉へ酸素が追い立てられていく。
「なあ、この村でまあまあ年頃の、活きのいいやついるか」
**********
夕方、十六時半、お菓子を貰いにやってきた子ども達を見送った後、後ろから近づいてきた人影に振り向く。
「お菓子って、オレの分ないの」
「誰……ですか?」
逆光で顔が見えない。明らかに子どもではない。ちょっとよそ行きの格好をした成人男性、黒い洋袴、白いシャツ、黒いベスト、夕焼けと混じる髪の色がやけにまぶしく見えた。逆立った毛先の先端に、黒く鋭い角が見えた。
「逃げて!!」
清彦がそう言うと、子ども達が叫んで逃げる。ついでに浜渡も逃げた。
「なあ、」
肩に指が食い込んで地面に押し潰される。頬に刺さる小さな砂利が痛い。黒いベールと地面の隙間から教会の白いレンガがぼんやりと見える。あたりに人の気配がしない。子ども達は全員いなくなったようだった。
「オレの分、無いの」
清彦の手の先が冷たくなっていく。触れられている肩がじくりと痛んだ。
「聞いてんの」
「無い、無いです。悪魔にお菓子なんて、」
「悪魔だってバレてるんだ、普通の服着てきたつもりなんだけど」
角かなあ、これしまえないんだよなあ、と気の抜けた声がする。悪魔が清彦の左腕を背中に回して押さえつける。
「じゃあ話は楽か」
息が苦しい。ぼやけてきた視界の端に、黒い影が見える。
「なあ、この村でまあまあ年頃の、活きのいいやついるか」
「…………生贄、」
「うーん、まあ、似たようなもんかな」
黒い影が叫びながらこちらに駆けてくる。浜渡のようだった。
「清彦殿!」
浜渡が何か棒のようなものを投げてくる。銀色のそれは沈む夕陽を受けてぎらりと光り、清彦のすぐそばに転がった。吹き口のようなものと、いくつか穴が空いている。
「……笛?」
「なんだそれ」
「清彦殿、それを吹くんだ! その悪魔には聖水も十字架も銀の銃弾も効かない、でもそれなら、」
「…………笛?」
「そうだYO清彦殿! 名工である清彦殿のお父様が作った銀の笛なら、その悪魔を!」
「え、笛?」
「村のシスターが吹くことでその笛は効果を発揮する! 清彦殿、早く!」
「え?」
「清彦殿!」
「えぇ……」
「清彦殿右手あいてんじゃん! 取れるでしょ!」
「いや、ちょっと……笛は……」
「それでみんな助かるんだってえ!」
浜渡の叫びも届かず、清彦はほんの少し振り向いて呼びかけた。
「あの、悪魔さん」
「人の子、それ吹かないの、どんな音が鳴んの、それ」
「生贄って、僕じゃダメですか」
「清彦殿?」
「食べられてもいいんです」
「ちょっと清彦殿なに言ってんの?!」
清彦に跨ったまま、悪魔の手が緩む。
「はぁ、ええ~~~……もうちょっとだけ若いやつのが都合いい……」
悪魔の下で、清彦が顔を上げる。頬に付いた砂を手で拭う。先ほどまで不満そうだった悪魔が口を開けた。
「えっ…………」
「あの、あれだけは、吹きたくないんです」
見上げた悪魔の顔は、引き攣っているようにもニヤついているようにも見えた。顔色はよく見えなかったが、声がなぜか嬉しそうに跳ねた。
「え、あの、え? マジでいいの? 連れて帰っちゃうけど……」
「はい」
「清彦殿?!」
瞬間、バリ、と悪魔の背中が膨らんで、蝙蝠のような大きな羽が現れた。
「人の子、お前を連れていく」
「はい、いいです、全然、どうぞ」
清彦の身体を片腕で抱えて悪魔が立った。悪魔がちらりと銀の笛を見る。
「ついでにこれも、うん、貰っていこう、なんか脅威になるかもしれないし。うん」
清彦と銀の笛を持って、悪魔は飛び立った。黒い影が洋館に向かって小さくなっていく。浜渡は呆然とそれを見ていた。
三
初めて空を飛んだ。落ちたら死ぬ、という焦燥感だけで悪魔の身体にしがみついていた。洋館の二階らしき出窓に降り立つと、悪魔は回された腕をこわごわと撫でた。
「あの、大丈夫だった? 高いとこ怖いか?」
「……」
身体に回していた手を下に降ろすと、悪魔は、はぁぁ、と一仕事終えたようなため息をついた。洗われた犬のように身体を震わせると、大きな蝙蝠の羽は靄のようなものに包まれて消えた。
悪魔はそのまま早足で壁に備え付けられた棚へ向かい、銀の笛をしまった。それからまた早足で戻ってきて清彦を数秒見つめ、何かを思い出したかのようにまた部屋をうろうろし始めた。
「あの、なんか、お茶とか飲む? 人の子も紅茶でいい?」
「あ、いや、お構いなく」
「そこ、ベッド、座ってて」
悪魔が廊下へ姿を消す。仕方がないので言われた通りに清彦はベッドに腰掛けた。普段自分が使っているものとは比べ物にならないほどふかふかだった。廊下からぬっと悪魔が顔を出す。
「ちょっと、お湯沸かしてるから待ってて」
「あの、」
「アッ、……そうだ」
また悪魔がいなくなる。今度はすぐ戻ってきた。手に濡れた白い布を持っている。
「ごめんなあ、地面に潰したりして」
悪魔が布で清彦の頬を拭う。やけに優しい。
「あの、聞きたいことが」
「うん何、どうした」
「……僕は、これからどうやって殺されるんですか」
「…………」
「できれば、寝てるうちにやってもらうか、それか一瞬で終わるのがいいんですけど」
「……殺したりしないよ」
「なんで、悪魔なんでしょ、生贄を奪うために村に降りて来たんでしょう」
「なんか変に伝わってるなあ」
「違うんですか」
「うん、」
悪魔が布をベッドに放り投げる。そのまま床に膝をついて、清彦の足を抱えた。そのまま太腿に悪魔が頬を乗せる。
「殺したりしないからさ、ずっとここにいてほしいんだけど」
「……どういうことですか」
「ツガイになってほしいんだよ」
「……はぁ?」
清彦が返事をするのと同時に、警告音が鳴り響く。わ、と悪魔が呟いて、清彦の足を離れた。
「お湯沸いた」
「お茶とかいいんで、話の続きを」
「紅茶でいいんだっけ?」
「なんでだよ、聞けよ」
数分して、悪魔は戻ってきた。陽が落ちて暗くなった部屋の明かりも点けずに、ベッドのサイドテーブルをずるずると引き摺って、ポットとカップを置いた。
「あの、さっきの話なんですけど」
「ああうん、ツガイになってほしいね、オレとしては」
「え、あの、僕は男なんですけど」
悪魔が乱暴に紅茶を注ぐ。びたびたと飛沫がテーブルの上に飛んでいる。
「うん、妙なカッコしてるなとは思ったよ。オレも男の身体をしているけれど、人の子じゃないから生殖能力は無いし、人の子さえよければオレは気にしないよ」
「ツガイになったら、どうなるんですか」
「うーん、……この先千年、オレが生きてる間は村を襲ったりしないね。正確にはオレが生きて、死んで、その次の悪魔が生まれて、その悪魔が大人になるまでの間。ちょうど千年」
「…………」
悪魔が紅茶の入ったカップを差し出してくる。水面に仰々しいシャンデリアと困惑している自分の顔が映った。
「あとそうだなあ、ある意味オレの眷属になるから、普通の人の子よりは寿命が伸びるな」
「僕でいいんですか」
悪魔が紅茶を啜る音が止まる。そのまま何も答えなかった。ただこちらを見て、ニヤつくのを我慢しているように見えた。
「……できれば、君がいいな」
「あの、あと」
「質問多いな」
「……ツガイになるって、実際どうするんですか」
「…………」
悪魔がカップをテーブルに置く。じっと清彦を見ている。目が離せなくなって固まっていると、悪魔の顔が近づいてくる。
「ちょっと、察してるくせに」
「………………」
清彦のカップを持つ手に悪魔の手が重なって、テーブルに誘導される。派手な音を立ててカップはソーサーに収まった。そのまま悪魔が清彦にのしかかろうとしてくる。
「あの、もう一個だけ、聞きたいんですけど」
「なんだよ、後じゃダメか?」
「……悪魔って、みんなそんな美形なんですか?」
「………………」
数秒経って、耐えきれない、という風に悪魔が笑った。なんだか収まらなくなってしまったようで、清彦の肩口に額を乗せてしばらく笑っていた。
「……人の子に口説かれるとは思ってなかったな」
悪魔がニヤつきながら、正面から見つめてくる。触れられた頬から首へ、熱さが伝染していく。赤くなった様を見られたくなくて清彦は顔を背けようとしたが、強い力で固定されてそれは叶わなかった。
「人の子、名前は?」
「……清彦」
「きれいな名前だなあ、清彦」
「…………」
「清彦、」
「………………」
悪魔が無言で自分の唇を指さした。清彦は抗えないような気分の中で、それでも自分の意志でそこに口づけた。
**********
「はぁ、、ぁ、……」
柔らかい寝具に身体を埋めた清彦の上に、悪魔が覆いかぶさる。首筋に生温い息がかかる。
ブーツを脱がすついでに悪魔は清彦の足の間に身体をねじ込み、身体の稜線を何回も手で撫でつけている。その手が胸を往復するたびに、清彦の身体はにわかに硬直した。少しずつ主張を始める突起を親指の爪先で押し込む。反った首筋から鳴き声が漏れる。
「自分でするとき、使ってんだ? ここ」
そう囁いてくる悪魔を睨みつけると、怖い怖い、とおどけた調子で返事をしてくる。
「別に答えなくていいよ、全部わかる」
黒い服の裾から手が入り込んできて、白い足が露わになる。簡単に下着が引きはがされて、誰にも見せたことのない秘部が悪魔の眼前に晒された。吐いた息が口元を押さえる自分の手に当たって跳ね返り、じとじとと口元を湿らせる。その間もずっと、悪魔は清彦の足を開いたまま押さえつけ、そこを眺めていた。
「きれいなもんだな、かわいい」
「ぅ、んんっ、ん、ぁ、やめっ、、て」
悪魔が陰茎に手を添えて撫で擦る。もう片方の手で服を胸元まで捲り上げ、顔を近づける。
「ぁ、ぁ、やだっ、あっ!」
悪魔が突起に舌を這わせ、唾液を塗りつける。ぢゅ、と音を立てて吸うと清彦の身体が跳ねる。腰に血が集まっていくのを抑えられない。質量を増した陰茎の皮を悪魔がずり下げる。
「先っぽ、ピンク色だ。すげえやらしいな、みんなに頼られるシスターさんがこんな……」
清彦が悪魔を押しのけると、悪魔はなぜか素直に身を引いた。そのままヘッドボードに置かれていた小瓶を掴んで、中身を手のひらに垂らす。
「そ、それ、何ですか」
「ん、普通のぬめり薬」
ぐちぐちと音を立てながら、悪魔がローションを手のひらに馴染ませた。その手を清彦の尻のあわいに擦り付ける。熱い手が固く閉じた秘所をぬるぬると何回も往復していく。
「力抜いて、大丈夫だから」
次第に柔らかくなっていくそこが、ぷちゅ、と卑猥な音を立てて指に吸い付くような動きをする。誘っているかのような動きをする身体とは逆に、自分の身体がなぜそのようなことになっているのか清彦はわからなかった。悪魔が様子を伺うように指先で秘所をつつく。清彦が手を伸ばすと、悪魔が応えるように身を寄せた。
「どうした?」
「こわい…………」
「ん……、大丈夫だよ、大丈夫」
清彦がしがみつくと、悪魔が顔を寄せてくる。口をうっすら開いて待つと、悪魔が少し笑って口づけた。ゆっくりと入ってくる舌を吸うと、時を同じくして後孔に指が侵入してくる。
流し込まれる唾液を飲み下すごとに、なぜか力が抜けていく。時間をかけて解され、もう足に力が入らなくなっていた。悪魔が指を引き抜く。離れていく身体に虚しさを感じたが、悪魔がベルトを外しているらしい金属音が清彦を引き戻した。外されたベルトの下から出てきたそれは、もう限界だというかのように凶悪に反り立っている。
「なあ、もう、っていうかとっくに引き返せないけど、いいか?」
目を見開く清彦の上に、悪魔の影が被さる。先ほどまで悪魔にしがみついていた手は、自然と胸の前で組み合わされた。
「自分を犠牲にして、みんなの安寧を守って、優しいね、清彦は」
切っ先が蕾に当てられる。
「でもさあ、」
ぐぐ、と腰が押し進められ、ゆっくりと割り開かれていく。あ、あ、と声が漏れる。
「お前、ほんとはめちゃくちゃにされたいだけだろ」
「ッ?! あッ、ぁ、、~~~~ッ!」
突然悪魔が勢いよく腰を打ち付けた。
「ひっ、ぁ、あ、あ、ッ、やだぁ、アッ!」
「あ~……人の子って、こんなに可愛いんだ……いや、清彦が特別可愛いのか」
悪魔の切っ先が清彦のナカのしこりを擦ると、ひと際甘い声を上げた。揺さぶるのに合わせて陰茎を擦ると、呪詛にも似た必死な声が溢れてくる。
「あ、ぅあ、っあ、悪魔ぁッ……!」
「なぁ、お前の大切なものは傷つけないし、気持ちよくしてやるよ、めちゃくちゃにもしてやるよ。だからずっとここにいて」
「ぁっ!♡ わかった、わかった、から、おねが、い、ゆっくり、ゆっくり、シて、」
「うれしいな……、名前呼んで? ジャガーって、ほら、清彦」
ジャガーが清彦の手を解き、自分の背中に回した。服を掴む清彦の腕がぶるぶると震えている。
「じゃ、がー、さん、ッ、……ジャガーさんっ……、んんッ、ん、、」
名前を呼ぶ口がやけに愛しく思えて塞ぐ。こうして悪魔は一生のツガイを手に入れた。
「……思ったより、痛くなかったです」
「ああ、まあ、こっちは悪魔なもんでね」
違和感があるような気がして腹を擦っている清彦を、後ろからジャガーが抱き込む。何か変な力を使っているのか尋ねようとしたが、寝息が聞こえ始めたのでやめた。振り向くと、美しい顔をした悪魔が、顔を妙な角度にひねって眠っている。角がじゃまなのだ。
四
異様に身体が熱い。昨晩から熱の引かない身体を転がして、這うように身体を起こす。一晩中背中にへばりついていた悪魔はいない。悪魔の体液を受けてから身体がおかしい。
清彦の身体が細胞ごと「人間ではないもの」に作り変えられているようだった。
悪魔が用意した就寝用のガウンを脱ぎ捨てて、いつもの服に袖を通す。ブーツを履く。これからどうなるんだろうと考えながらぼんやりベッドに腰掛けていると、廊下から悪魔がやってくる。
「ピヨ彦、おはよう」
「……おはようございます」
「キッチンはこっち。腹減ってるか?」
よく考えたら昨晩の紅茶から何も口にしていない。身体はだるいが胃に物は入りそうだったので、ベールを手に取って悪魔の後ろをついて行く。
「早起きなんですね、ジャガーさんは」
昨晩教えられた名前を呼ぶと、ジャガーは口角を上げながら振り向いた。
「普段はそもそもあんまり寝てない。昨日は久しぶりに夜に寝たよ。夜に寝るっていいな、ピヨ彦のおかげだよ」
「はぁ、あの……、ピヨ彦って、僕のことですか」
そうだよ、と悪魔は言ってキッチンの扉を開いた。
思えば、悪魔の食事がどのようなものかわからない。何かの生き血とかだったらどうしよう、とピヨ彦は思った。
ジャガーがテーブルの椅子を引く。どうぞ、というので素直に座る。テーブルの上、ピヨ彦の前に白い椀とスプーンが一つずつ置かれている。中には何も入っていない。
ジャガーが棚から何かを取り出し、近づいてくる。手に持った箱を傾けると、ピヨ彦の前の椀に、薄茶色のものがザラザラと注がれた。
「え……?」
「どうした?」
「コーンフレーク?」
「そうだよ」
「悪魔ってコーンフレーク食べるんですか?」
「…………」
「………………」
「チョコパフのやつもあるぞ、そっちの方がいい?」
「いやそういうことじゃなくて、え? いっつも朝はこれ食べてるんですか?」
「朝はっていうか、ずっとこれだね」
「……え?」
「あんまメシ食わないんだよ。基本、こう、村の人たちの怒りとか憎しみとか怠けとか、そういうものがオレの栄養だから」
「はぁ?」
「そんで、あまりにも村が平和すぎるとたまに腹が減る。今日は腹減ってない。昨日お前を攫ったから村人が怖がってていい感じ」
「…………」
「あと、まあ、ちょっと違う意味で、昨日ピヨ彦も食ったし、フフッ」
ジャガーがポットを持ってきて、勝手にピヨ彦の椀に白い液体を注ぐ。牛乳だろうか。頭が働かないのでとりあえず一口食べる。頭を抱える。
美味しくないのだ。
絶妙に美味しくないのだ!
「あの、これ、どこで買ってるんですか、あとこれ牛乳っぽいの、何ですか」
「スキムミルクを井戸水で溶かしたやつだね」
「絶対分量間違えてますよ」
「コーンフレークもスキムミルクも隣町のネットスーパーで買ってるよ」
「ネットスーパー?!」
「この山越えたところに1個小屋があってさ、そこが住所的にはもう隣町なんだよ。向こうは悪魔の伝説とか無いから普通に置き配してくれる」
「…………」
「でも遠いから生鮮食品はダメなんだよ。んでオレも腹減るときと減らないときがあるし、日持ちがする食品の方がいいんだよね」
「………………」
味の薄い、ふやけたコーンフレークを噛み締める。どうにかしないと、この先死ぬまでの食事がこれになってしまう。清彦は、ふっと昨日の会話を思い出した。
「あの、昨日言ってた、僕の寿命が伸びるって、あれ、どのくらいなんですか」
「ピヨ彦いま何歳?」
「28です」
「じゃあ970年くらい」
「……………………え?」
「オレいま20歳だから、そんなに変わんないな」
「20歳?!」
「見えないか? 失礼だな」
「970年?!」
「昨日言ったじゃん、オレ千年生きるって、ツガイなんだから早く死なれたら困る」
「僕970年コーンフレーク食べるの?!」
「だからチョコパフもあるって」
「……………………」
「……嫌なの?」
「嫌だよ!!!!!!」
「オイ待てよ」
ピヨ彦は突然立ち上がって、ベールを乱暴に被って走り出した。案内もなしに本能で玄関まで駆け降りて、一直線に山を下り、森の道へ消えていった。ジャガーも途中まで追いかけはしたが、玄関を出るともう姿が見えなくなっていたので引き返した。
なんなんだ、ずっとここにいるって約束したくせに。それからジャガーはキッチンに戻って、食べ残しのコーンフレークをかき込んだ。十分美味いと思った。
寝室に行く。ピヨ彦の着ていたガウンをベッドから拾い上げて頭に被り、倒れ込む。こんなにいい匂いのする人の子がいるなんて思いもしなかった。別にピヨ彦がいなくたって昨日までの暮らしに戻るだけなのに、それが嫌だった。
でも契ってしまったからにはピヨ彦の命は伸びてしまっている。まあ百年もすれば周りの奴らが代替わりして、死なないピヨ彦を不審に思うだろう。そうすればあいつはここに逃げ込んでくるしかない。それまでの百年をどう過ごすか。羊でも襲うか、偉いやつでも堕落させて国を転がすか。
ふと思い出して例の銀の笛を取り出す。試しに吹いてみるといい音がした。適当に吹いているとまあまあ楽しい。気が紛れる。そういえばこれをシスターであるピヨ彦が吹くと何かが起きるということだが、オレは死ぬのだろうか。
本当は千年でも、一緒にいて足りないくらいなのに。きっとピヨ彦の行き先は天国で、オレの行き先は地獄に決まっている。地獄に行くのかどうかすら怪しい。そこで絶対に離れ離れになるのだから、生きている間くらい我慢してほしい。
そう考えながら目を閉じていると、いつの間にかジャガーは寝てしまっていた。陽が沈みそうになっている。また夜を生きる日々が始まるのだ。
どこか遠くでギイギイと何かが鳴っている。それはどんどん近づいて、館の前で止まった。
「ジャガーさん!」
出窓から外を覗くと、ピヨ彦がいた。
「開けて、ジャガーさん」
階下に駆け降りる。踊り場で躓いて身体をぶつけたが、そんなことはどうでもよかった。
玄関の扉を押し開け外に出ると、入れ替わるようにピヨ彦が猫車を押して中に入っていく。
「ピヨ彦、どうして」
山道をひとりで、これを押して上がってきたのか。荷台には米やパン、野菜や肉、牛乳の入った缶が詰められている。
力尽きたのか、玄関に蹲っているピヨ彦からの返事はない。ふう、ふう、という息が収まって、やっと顔を上げた。
「カレー、作るよ」
**********
西の森から駆け出してきたピヨ彦を見つけたのは、ある農夫だった。土や葉で身体を汚して、汗まみれのシスターを見て、男はひどく狼狽えた。
「シスター清彦! 無事だったのか?!」
「……水をください。それから、みんなを教会に集めて」
鬼気迫った様子のピヨ彦を見て、農夫は言われた通り水を差し出し、教会の方へ駆けて行った。
息を整えて、足を踏み出す。ここからだ。
教会に着くと、大勢の人が礼拝堂に集まっていた。よくぞご無事で、お怪我はありませんか、悪魔は本当にいるのですかと、村人たちが口々に言う中、ピヨ彦が大きく息を吸うのを見て教会の中は静かになった。
「悪魔の伝説は、本当でした」
ざわざわと村人たちが沸き立つ中、ピヨ彦は続ける。
「しかし! 私は、悪魔と話をつけてまいりました。今後千年、悪魔があなた方を襲うことはありません」
おお……という声が広がる。
「ただ、その代わり、毎週日曜日、一週間分の食料をふたり分、西の森入り口まで届けてください。また、私は悪魔の棲む洋館に住み込み、必ずや悪魔を改心させることを誓います。例え、千年かかったとしても」
礼拝堂の中が困惑の声でいっぱいになる。
「清彦殿! 教会はどうなるでござるか?」
「普段の運営は浜渡に一任します。日曜日の食料引き渡しの際には私も山を降りますので、何かあればその時に聞いてください」
なぜシスター清彦が行くんだ、浜渡に任せて大丈夫なのか、心配だ、浜渡が行け、と村人たちが言う。
「みなさん!」
ピヨ彦が村人たちの注意を引きつける。
「これからも、私以外は洋館に近づかないように。これは村人を襲わせないための、悪魔との取引の一部です。さもないと、この村は滅亡の道を辿る可能性があります。あらゆる災害、あらゆる病、毎晩の悪夢、靴下が片方だけ無くなる……」
**********
「なあ、オレそんなことしないんだけど」
カレーを目の前に、おあずけの状態にされたジャガーが言った。
「食べていいよ」
「…………うま」
五
ジャガーはピヨ彦にくっついているとよく眠れるようで、次第に二人とも同じくらいに起きるようになった。教会勤めだったピヨ彦は毎日同じ時間に起きることが癖になっており、始めのころとは逆に、ジャガーが朝起きるとピヨ彦が既に動き出していることもあった。
「おはようジャガーさん、よく眠れた?」
「……おはよ」
朝方は冷えるので一秒でも長くベッドにいてほしいが、ピヨ彦には毎朝祈りの時間があるらしい。悪魔は人を堕落させるのが仕事なのに、自分の方が堕落している気分になる。まあ普段敬虔なピヨ彦が夜になって乱れるさまを見るのはジャガーにとって悪いことではなかった。
「なんか最近よく寝てるね、冬眠の準備?」
「悪魔は冬眠しない」
「そうなんだ。悪魔が冬になる前に村へ降りてくるって文献にあったから、冬眠の前に人食べてるのかと思ってた」
「それなら毎年贄取ってなきゃおかしいだろう」
「それもそっかあ」
最近は夜眠いし腹が減る。村が平和なのだ。それにコーンフレークが美味しい。村から持ってきた牛乳を、傷みづらくなるようにピヨ彦が一度沸かして保存してくれている。
「冬はさあ、なんか単純に、こう、寂しいだろう」
「……そう?」
「山にいると、生き物はいないし、寒いし、布団にくるまってるしかない。そういう時期にツガイがいれば暖かいし、つまんなくないだろう」
「去年まで寂しかった?」
「そりゃもう」
机の向こう側でピヨ彦が姿勢を崩して頬杖をつく。ジャガーが腕を伸ばして髪を撫でると、無言で頭を差し出してくる。人懐っこいやつだとジャガーは思った。
「確かにね、もう朝とかだいぶ寒いし。そうだ、広間に暖炉あるけど、あれって使えるの」
ジャガーが椀に残った甘い牛乳を飲み干す。
「んん、使ったことない、ちょっと見てみるか」
そう言ったジャガーが椀を片づける。キッチンから出ていくのでピヨ彦もついて行く。
しかしジャガーは広間ではなく寝室に向かった。棚から分厚いノートを取り出す。
「何が書いてあるの、それ」
「父さん……いや、血は繋がってないんだけど、先代の悪魔が残した書置き。これにネットスーパーの使い方とかも書いてある」
ジャガーが「冬……」と呟きながら、最後の方の数ページをパラパラとめくる。
「ああ、使えるみたいだぞ。掃除もしてあるらしい。オレが生まれてからは使ってないから、煙突ん中を屋根登って見てさあ、なんか詰まってなかったら大丈夫だろ」
ピヨ彦が横から手を伸ばしてページをパラパラと捲る。下まぶたがぎゅっと上がっている。
「……なんだよ、そんなに暖炉が嬉しいか」
「違うよ」
机に手をついて背を伸ばす。
「悪魔も、愛されて生まれるんだねえ」
「…………そんなわけないだろ、悪魔だぞ」
「そういえば、裏庭に薪が積んであったよ。あれもお父さんが残してくれてるのかな?」
「聞けよ。…………見に行くか」
裏庭に向かう。朝の寒さも和らいで、少し暖かい陽の光が頬に当たる。
20年の間手入れされていない庭は雑然としているが、ぽつぽつと花が咲いている。様々な葉や蔓が入り混じる中でも、秋バラは柔らかく香を放っていて、カランコエらしき葉は蕾をつけていた。
「これさあ、暇なときにちょっと整えてもいいかなあ」
「いいよ。……だってさあ、夜に見ても何が何だかわかんなかったんだもん」
「最近は起きてんだから一緒にやろうよ」
「ああ、こんな昼夜逆転生活するなんて思わなかったなあ」
そこ、とピヨ彦が指を差す。素朴な作りの物置小屋の中に、薪が高く積まれている。
「20年も前だと、乾燥しきってるだろうからよく燃えるね」
「その辺の木じゃだめなのか?」
「うん、半年は乾かさないと……ここの薪を使って、使った分、来年新しく切って追加していこうか」
「あ、チェーンソーもある」
「年代物だねえ」
「……ピヨ彦、」
「ん?」
「あれ、持って」
ジャガーが何を言っているのかはわかる。シスターには似合わない代物だ。
「あはは、スゲー! B級ホラーみたい」
「……ちょっと、僕も思ったね、それ」
「来年使うとき気をつけような。寿命が伸びたぶん身体も丈夫にはなってるけど、手吹っ飛ばしたりするのは流石に治らないと思う」
「丈夫になってるんだ」
ピヨ彦が元の場所にチェーンソーを戻す。ジャガーは積まれた薪を少しずつ、二人が持てる分引き抜いて床に置いていく。
「うん。ちょっと調子悪いなとかはあるけど、風邪とかは基本引かない」
「そうなんだ、便利」
薪を抱えて外へ出る。ジャガーが小屋の扉を足で閉めた。
「でも花粉症にはなる」
「え?」
「なる。命に関わる病気じゃないし、病原菌とかじゃなく花粉に反応してるだけだし、健康かどうかとは関係ないし」
ピヨ彦の顔から笑顔が消える。裏庭の奥に続く森を見上げる。針葉樹である。
「ジャガーさん、あれ、杉?」
「ん~そうだと思う」
「あれ、切っていい?」
「ピヨ彦がやりたいなら、いいよ」
「ちょっとだけ、村の人、ここに呼んでいい?」
「オレに石投げたりしないならいいよ」
ちょっと、村降りてくるね、夕方までには戻るから、そう言って玄関に薪を置いた後、ピヨ彦は出かけて行った。ピヨ彦が出かけても、ジャガーは以前のように絶望感に苛まれることもない。背中に羽を出して屋根まで登り、煙突を覗き込む。特に何か詰まっている様子もないので安心した。
屋根からぼんやり周りを眺める。よく晴れた薄青い空の向こうにすじ雲が柔らかく連なっている。多分ピヨ彦に羽が生えたら、自分のようなこんな黒いやつではなくあんな感じだろうと思った。
これから冬を越す。きっと去年までの、早く過ぎ去ってくれと思うような冬とは違う。
空から視線を落とすと、森の中から村の方に小さな黒い影がせかせかと走っていくのが見えて、ジャガーはなんとなくそれを指で撫でた。冬を越した後のために、煙突を掃除する機械を買わなければならない。ネットスーパーで売っているだろうか。
**********
「シスター清彦! どうしたんですか? まだ金曜日ですが……」
「はい、あの………」
農夫が声をかける。ピヨ彦は落ち着いた様子で続けた。
「この村の、大工達を呼べますか? あの、木を切ってほしくて」
「どうしたんですか? 何か建てるのですか?」
「…………そう、そうです。教会を、そろそろ建て直すのもいいんじゃない、かな」
「神託があったのですか?」
「あ~……! そう! そうです! 教会を建て直し、また皆さんが神への忠誠を今一度誓えるように……、そして、あの、そのことを悪魔に伝えると、洋館の周りの杉の木であれば切っても構わないと言うのです、そう、これは、悪魔が神のために身を捧げ始めた、そういうことです」
「流石はシスター清彦! もうすっかり悪魔を手懐けているのですね!」
「そう、……そうなんです……あの、できれば年内に、冬のうちに、その時は、悪魔も館に皆が近づくのを許します」
**********
陽が落ちて少し冷え始めた。暖炉がパチパチと火種を育てている。だんだんと火は薪に燃え移り、二人の頬や鼻筋を橙色に染めた。
「ま~たお前は村人を騙して」
「騙してないよ導いてるんだよ」
はあ、とため息をついてジャガーが立ち上がる。暖炉のすぐそばにあるソファにどかりと座った。
「それさあ、詰めたら二人座れないの」
「ギリギリ無理じゃないか?」
ピヨ彦が不満そうに口を尖らせる。いいよー、と言って広間から出ていった。ソファをもう一つ買うか、大きいものに買い替えるか考えていると、ピヨ彦が戻ってきた。掛け布団を頭に被っている。
「オイそれ反則だろ」
「いいじゃん別に」
「堕落! 堕落!」
あーあったかい、と言いながら、布団を被ったピヨ彦が暖炉の前に座る。
「なあ~、燃え移ったらどうすんだよ、危ないぞ、こっち来いよ」
ピヨ彦が振り向く。やけにすんなりと言うことを聞いてソファまでやってきた。そのままジャガーの膝の上に座り、布団を肩までかけた。
「ああ~~~~……あったけえ……」
ピヨ彦が揺れるので笑っているのだとわかる。被っているベールを脱がせてソファの背に掛けると、ジャガーの身体に頭を凭れてきた。
「オレ、一人だと暖炉つけようなんて思わなかった。いい子だなあ、ピヨ彦は」
「悪い子だよ」
「いい子すぎて逆に悪いやつなんだ」
「なに、それ」
アハハ、と笑いながらピヨ彦が振り返ってジャガーにキスをする。もぞもぞ身体をひっくり返して、膝の上で向き合う。そのままジャガーの髪の毛や頬、眉毛のあたりをペタペタと触る。
「あのさ、」
「触りすぎ? ごめんね」
「お前、オレのために祈るのはやめな」
「……してないよ」
「祈ってるだろ、毎朝毎晩。お前のことわかるよ」
「…………」
ジャガーは自分の身体に異変が起きていることに気づいていた。やけに穏やかな気持ちで目が覚める。村でちょっとした諍いがあっても腹が減る。
「祈ったって、オレが天国に行けるわけないだろ、無駄なことはするなよ」
「そんなのわかんないじゃん」
「怒りとか苦しみとか絶望とか、そういうものの集まりがオレだ、それが天国に行ってどうする?」
「それだけじゃないでしょう、だってジャガーさんは」
「いいからやめな、無駄なんだから。あっ、そうだなあ、ピヨ彦が死ぬ前にあの銀の笛吹いてよ、そしたらオレ寿命待たなくても楽に死ねるかも」
ピヨ彦がジャガーの襟元をぐっと掴む。
「……笛は吹かない。……ジャガーさんもさあ、あれ、やめて」
「なに」
「…………」
「……ん? え、何? 今何考えてる?」
「…………夜」
ピヨ彦の顔がみるみる赤くなっていく。
「ぼ、僕、のこと、抱くとき、なんか、使ってるでしょう」
「……何を?」
「だって僕、ここに来るまで、あんな、なったことないもん」
「何が?」
「さ、催淫、魔法、みたいなの使ってるでしょ」
「…………」
「……そんなもの、使わなくても…………もう、ジャガーさんのこと好きだから……触られるの、全然、嫌じゃないから」
「…………いや使ってないけど、何それ」
襟元を掴む指がほぐれていく。ジャガーの胸元あたりを見つめていた目は一瞬合った後、すぐにまた逸らした。
「あの、サキュバスとかインキュバスとかが使う……」
「オレはサキュバスとかインキュバスとかじゃないもん」
「だってジャガーさん、初めてして痛くなかったとき、『こっちは悪魔だから』って、言ってた」
「いや悪魔と人の子では力の差があるから、なるべく優しくしたよって意味」
「…………」
「あんあん言ってるのは普通にピヨ彦の才能だと思う」
「……………………」
ピヨ彦がジャガーの膝からずり落ちていく。布団を肩にかけて、無表情で立ち上がった。
次の瞬間、ピヨ彦は寝室の方へ駆け出して行った。
「うわあああああああ!!!!!!!」
「待てピヨ彦オイ!!!」
ああ、オレがわかると思っていたピヨ彦のことは、「自分の想像の付く範囲」だったのだ。ジャガーはピヨ彦を追いかけながら初めて気づいた。なんて楽しいやつなんだろう。千年一緒にいたって、きっと飽きない。咄嗟に掴んだピヨ彦のベールが走るジャガーの手の中でなびいている。
六
やけにいい気分でジャガーが目を開ける。普段目を覚ます時間より大分早い気がする。それなのに、抱きとめていたものはもうそこにいない。しんとした冬の空気が鼻をツンとさせる。寂しい、と一瞬思ったが、首を横に向けるとベッドの縁に求めていたピヨ彦が座っている。
何か呟いている。またオレのために祈っていやがる、とジャガーは思った。
ベッドの上を這って、ピヨ彦の顔を覗き込める位置へ行く。窓枠の向こうの薄明が少しだけピヨ彦の頬を照らしている。伏せられた短い睫毛を数えたい気持ちになった。そのまま眺めていると目がゆっくりと開いた。
「おはよう、ジャガーさん」
「……ん」
ピヨ彦がジャガーの身体をぐいぐいと押す。元いた場所に収まると、ピヨ彦も隣に寝転がった。
「二度寝すんのか」
「うん」
「悪いやつ」
「そうだね。ジャガーさん、ちょっと頭上げて」
ジャガーが言われた通り頭をもたげると、ピヨ彦はその下に腕を差し込んだ。
「角がじゃまなのかなって、思ってた」
頬に寝心地のいい腕が当たっている。首はまっすぐ伸びて、ピヨ彦をまっすぐ見つめられるようになった。ピヨ彦の指先がさりさりと角を撫でる。
「……やっぱ、いいやつだな」
「ねえ、ジャガーさんが天国に行けるようにって、祈るのやめた」
「嘘つけ、さっき祈ってた、オレのこと」
「嘘ついてない、自分のこと祈ってる」
「どんなふうに」
「天国でも地獄でも、どっちにも行けなくても、ジャガーさんと一緒にいられるように」
「……できるのかね、そんなこと」
「970年祈ればいけるっしょ、だってさあ、ジャガーさん僕がいないと寂しいんでしょ、そんならさあ、しょうがないなあって……」
ピヨ彦の喋る言葉がどんどん緩やかに、薄くなっていく。
「お前は、やっぱりいいやつだなあ……」
たまには昼まで寝たって、同じように寝てやるから構わない。こうして夜明けと夕暮れの間を生きていく。
角で傷つけないように、気を付けながらピヨ彦の腕を背中に回す。同じようにジャガーもピヨ彦の背中に腕を回して、足を絡めて、逃がさないようにした。