ちゅん、と、つけてもいないテレビから主電源が落ちる音と同時に周りが真っ暗になった。別に理由もなく夜更かしをしていた部屋を一層の静寂が包んだ。暗闇に目が慣れないまま、オレはピヨ彦の名前を呼ぶ。二畳ぶんくらい隣、布団の中で漫画を読んでいたはず。自分の服の白さだけがかすかにぼんやりとわかるだけの世界で手を伸ばす。
「ピヨ彦、」
「えー……停電?」
「ピヨ彦?」
「ん、んん、いるよ、ここ」
声のする方に手を伸ばす。布越しの温い皮膚に触れて止まる。肩の丸みだ。
「いた」
「ブレーカー落ちるようなことしてないよねえ」
立ち上がるピヨ彦の肩を逃がさないように掴んだまま、オレも立ち上がる。カーテンを開けると、暗い街並みが広がっていた。地上よりほんの少し明るい、というよりは暗くはない、みたいな空がピヨ彦の頬の輪郭をほの青く浮かび上がらせた。
「真っ暗だな」
「ここら一帯? 全部停電しちゃってるのかなあ」
じっと窓の外を見つめる。そこから何呼吸分か、黙ったままでいる。オレの手もピヨ彦の肩を掴んだまま。なんだか妙に、いたずらしたいような気持ちになって、ちょっと揉むみたいに手を動かした。ピヨ彦はそんなオレを気にせず、目線は窓の外を向いている。なんだ、落ち着きやがって。
「ピヨ彦、なんかさ、」
「ん?」
「ワクワクする……」
「あは、僕も」
ピヨ彦がやっとオレの方を向いたので満足した。肩から窓のサッシに手を移すと、温度の差に、じとりと指先が湿るような心地がする。クレセント錠をゆっくり下に降ろすと、今度はピヨ彦が窓ガラスに手をついてぐっと横にずらした。夜の風がぬるりと部屋の中に入り込んでいく。
「ちょっとまだ寒いね」
「ん、でもなんか……行けんじゃない?」
「ふふ、なにが」
「出ようぜ、ちょっと」
いつの日だったか揃いで買った、風でちょっと劣化し始めているサンダルに足を通す。コンクリートに直で立つのと汚さはほぼ変わらないが、気分の問題だ。あまり良くない凍狂の空気が運んできた塵を手で払って、ベランダの手すりに二人揃って腕をつく。
ぼんやり眺めていると、遠く向こうにちらちらとした光が見える。
「ジャガーさん、あれ、ほら」
「ん?」
「向こうの方、明かりついてる」
「ああ、ドンキ? ……ちょうどさあ、あれ、ギリギリ隣町じゃないか?」
「あーそうかも」
会話はそこで途切れて、じっと暗い街並みを見つめる。ぼんやり眺めているとだんだん目が慣れてきて、家の連なりがでこぼこの陰影をもって存在しているのがわかる。一台だけ道の間をクルマが通って、低いエンジン音とともにヘッドライトがゆっくりと街路樹や塀を舐めている。それがいなくなるまで目で追った。
ピヨ彦が、す、と大きく息を吸って振り返った。そのままサンダルを脱いで真っ暗な部屋の中へ戻っていく。それを横目で見ていた。
戻っちゃうのかよ、と思った。何も会話が無くても、別にいいじゃんか。視界の端にまたクルマが走って、それに視線を戻す。背を曲げて頬杖をつくと、いつの間にか冷えていた頬に気づく。てか、なんか、もう戻ろうよだとかなんか声かけてくれればよかったのに。空に視線を移すと、だんだんと目が、暗さと果てしない距離に慣れていって、小さな星が見えてくる。多分普段なら街灯の小さな灯りにすら邪魔されて見えないくらいの光だ。漠然ときれいだなとは思うけれど、まだピヨ彦が戻ってしまったのが気に入らない。
みし、という小さな音が背後で近づいてくる。振り返ると、ピヨ彦がアホみたいな顔でまたベランダに顔を出している。
「どうした」
「これ」
ブルーシートがピヨ彦の手に握られている。それを差し出されている。
「え、敷くの」
「ちょっと開いたぐらいでいいと思う」
またピヨ彦が暗い部屋の中へ戻っていく。何をしたいのかいまいち掴めないまま、ブルーシートを二、三回ほど開いた。また畳と素足が触れあって軋む音が近づいてきて、ああ、そのくらいでいいんじゃない、と言った。ちょうど二人座っていられそうな青いスペースをベランダに作り出したオレが顔を上げると、そこにはペットボトルとコップを二つ抱えたピヨ彦がいた。
ピヨ彦はサンダルを経由せずに、小川をまたぐように部屋からブルーシートへ足を乗せた。その日に焼けていない薄い皮膚が、ぼんやり青く明るく見えて妙に目が離せなくなった。小指の爪が小さい。ピヨ彦はしゃがんだままのオレを気にせずに、オレの目の前に座り込む。オレを見て、隣の空間を見て、またオレを見た。導かれるままに、隣に座る。
さっき星がだんだんと見えてきたように、ピヨ彦をじっと見ていると明確に輪郭を持ったピヨ彦が現れる。コンクリートに置かれたガラスのコップが、小さくジリ、と音を立てた。コップの一つにピヨ彦が液体を注ぐ。小さく、水が弾ける音がする。指の隙間から見慣れたサイダーのラベルが覗く。もぞもぞ動く二の腕が擦れるのが気恥ずかしくて、オレは空のコップに目を落とす……ふりをして、ピヨ彦の足の甲に透ける血管を視線で辿った。
筋のある足に緑と青の線がうっすらと走る。地図みたいだなと思っていると、しゅわしゅわした音が耳に近づいてきた。ピヨ彦が小さく、ん、と言って、コップをこちらに差し出している。受け取るとピヨ彦はもう一つのコップに自分の分を注ぎ始めた。またしゅわしゅわする音が耳を掠める。
ピヨ彦は黙ったままコップをこちらに寄せて傾けてきて、オレはそれに合わせる。コップの縁と縁が重なってカチリと音を立てた。小さく浮いてくる泡が弾けて、ちりちりと跳ねては青く光り、親指の付け根が少しだけ湿るような気がした。二人合わせてコップを口に運ぶ。さっきまで青く光っていた液体が口や喉を跳ねながら降りていく。
「うま……」
オレが言ったのかと思ったらピヨ彦が呟いたのだった。全く同じことを考えていた。それがなんだか妙に嬉しくて、黙ったままもう一口飲む。残り少なくなったコップの残りを見て、ピヨ彦がペットボトルを持つ。またオレのコップはサイダーを湛えて重くなった。
小さな声でピヨ彦が話しかけてくる。
「誰も起きてないね、このへん、みんな寝てるんだ」
オレも声のボリュームを合わせて応えた。
「何時くらいだったっけ、今」
「気にしなくていいんだよ、そんなの」
言われた通り気にしないことにして、ピヨ彦がサイダーを飲む口と、街並みを交互に観察する。まだ街灯も起き上がらない。大通りの方でぽつぽつと車が動くのが見える。青いペンギンの店は元気なままだ。少し目を離した隙にピヨ彦はコップを地面に置いて、目を閉じてじっとしている。
「眠いか?」
ふっと、ピヨ彦が少しだけ目を開ける。
「や……別に」
細く開けられた瞼の中で、目がオレの方を向く。また閉じて、ピヨ彦はちょっとだけ俯いた。
「味わってんの」
「味わう」
「なんか、ちょっとわくわくするしさあ、ジャガーさんもいるしさ、なんか、いいんだよ」
ぽつぽつと喋るピヨ彦を見て、オレも目を閉じる。真っ暗になった視界は他の感覚を鋭くさせて、頬にあたる空気の流れや、近くの木がかすかに揺れる音、まだコップの中でゆるく弾けている泡の音が小さく聞こえる。何か温かいものが近づいてくる気配がする。目を開けると、ピヨ彦の顔が目の前にあった。
「あっ、」
「お前!」
バツが悪そうに顔を引く。オレはコップを(可能な限り丁寧に)地面に置いて、ピヨ彦に覆い被さるように詰め寄った。
誰もそんなこと言っていないのに、ブルーシートから出てはいけない決まりがオレたちにはできていて、ピヨ彦はギリギリのところで腹に力を入れて踏みとどまっている。限界が来て、オレの服を掴んだ。顔と顔が近づく。
「恥ずかしいことしやがって」
耐えきれないように、ピヨ彦が口を歪ませて、ちょっと笑った。
「お前、外だぞ」
「でもさ、誰も……見てないよ」
ピヨ彦がまた目を閉じた。伏せた瞼の丸みだとか、長くないまつ毛だとかがオレをどうしようもなくして、口と口が重なった。炭酸のないサイダーは妙に甘く感じる。オレの服をギュッと掴んで、一生懸命に合わせてくるピヨ彦。口を離すと、オレたちはまたそっくりの息で笑った。ピヨ彦は背中を丸くしてオレの胸元に額を擦り付けてまだ笑っている。オレは指先でピヨ彦の足の甲を宥めるように撫でた。
「ピヨ彦、オレさあ、」
「うん?」
「……」
足の甲に指を立てて、つっと撫でる。ピヨ彦も、撫でられた場所を目を伏せて見つめながら、オレの次の言葉を待つ。
「ここに、家建てたい」
「……ん?」
「ほら、ここ」
足の甲の筋のくぼみ、静脈がまばらに見える薬指の付け根から二センチほどのところ。
「どういうこと」
「これと、これが、大通り」
太めの血管を指でつっとなぞる。
「……うん」
細くなっていく血管を辿って、さっき指し示した場所まで戻る。
「ちょっと閑静な……週末には買い物に出かけるけど、山とか近い」
「うーん……」
「そこに、誰にも知られずに住む、二人で」
オレのかすかな希望が口から溢れ出ていく。ピヨ彦から返事はないけれど、同じ気持ちであってほしい。
「いや、僕は……」
オレが顔を上げると、ピヨ彦の眉を顰めた顔が視界に入った。
「僕はやっぱり、海が見えるとこがいい」
表情を変えずにそう言ったピヨ彦を見て、オレはまた足の甲に目を落とす。青白い土地の周りを、ぎらつく青いブルーシートが囲っている。
「この辺?」
薬指の付け根から小指にオレはゆっくり移動して、そっと、しかし素早く崖を降りて、ピヨ彦の足の裏を引っ掻く。びくりと跳ねて、土地が逃げた。
「さっきからさあ、くすぐったいんだけど」
小さな声で怒っている。
「いやあちょっと、可愛くって、つい」
ピヨ彦が立ちあがる。オレはまだピヨ彦の足を見ている。こんなに小指の爪の形すら愛おしいやつは現れないだろう。
「ジャガーさん、もう寝よ」
「まだ眠くない」
「僕だって別に眠くはないよ……一緒に戻ろってこと」
「一緒の布団で寝てってちゃんとお願いしな」
「……一緒に寝よ」
「くすぐっちゃうかもしんないけど」
はああ、とピヨ彦がわざとらしくため息をつく。コップを二つ重ねて、ペットボトルを脇に抱えて部屋に戻っていく。そのため息の最後に、小さくいいよと付け足したのを、オレは聞き逃さなかった。