おにぎり1.5人前

――Mr.ジュンイチ、体調に変化はありますか?
「いえ、特には」

 独特の浮遊感がオレを包んでいる。船内にいる時とは違う、放り出されるような感覚。壁も屋根もない、途方もない空間がそこにはあった。実際に鮮やかなのか、オレの瞳孔が開いているのか、妙に眩しく、さっきまでいたステーションの白い外壁が光を通した大理石みたいに発光しているように見えた。

――このまま、しばらくの間は自由に。楽しんで。
「…………」

 ステーションから目を離すのがなぜか怖い。へその緒のようにつながる命綱をそっとなぞってから、ゆっくりと後ろを振りむいた。
 太陽の光に照らされて、半分だけ光る地球が見える。太陽の光は地上とは全く違う強さでオレの頬を刺す。だんだんと焦点があってくると、オレと同じようにその光に照らされている星々がじりじりと燃えるようにこちらを睨みつけている。何千何万何億何兆もの光に囲まれて、呼吸が浅くなり、空気は乾燥しているはずなのに肌が湿っていく。
 地球に視線を戻す。緑と茶色の陸地はユーラシア大陸の東側の形をしていて、その海との境目、日本を探す。足がゆっくりと宙を掻き、身体が不安定に前へ進む。凍狂のあたりを指でなぞる。
 突然、ヘッドセットが何かを傍受したかと思うと、ウゥ、というサイレンのような音が上がって下がった。ノイズまみれのそれに耳を澄ませていると、誰かの焦ったような怒鳴り声が混じっている。クルーの誰かのようだ。まるで背中から冷たい手を突っ込まれたように腹や首元が震えて、鼓動が早くなる。何かの無線が干渉しているのか原因がわからないうちに、音声はぶつっと切れた。ヘッドセットと耳が擦れるくぐもった音と、鼓動の音、呼吸の音以外は何も聞こえなくなった。なにかがおかしい。振り向くのがこわい。
 腰元を触る。命綱が、ない。身体がぐるっと回り、太陽の光を一瞬、真正面に受ける。眩しさに顰めた目を開けると、命綱どころか宇宙ステーションが丸ごと無くなっている。呼吸がさっきよりもっと浅く、早くなっていく。命綱が切れたら作動させろと言われた緊急脱出装置すら、帰る場所が無いと意味がない。耳鳴りがうるさい。酸素が、酸素が切れるまで、あと、6時間しか、ない。いや、6時間もある。バカみたいだ。何かをするには短すぎて、ただ死ぬのを待つには長すぎる。
 上下左右関係なくゆっくりと回る身体は、平衡感覚をおかしくしながら、視界にまた地球を映した。昼頃の凍狂をじっと見つめる。耳鳴りが少しマシになる。
「ピヨ彦、」
 名前を呼んでしまった。喉の筋肉が収縮して苦しい。昼の空じゃ向こうからは何も見えないのに、オレだけがじっと見つめている。届かないくせに、助けてくれと叫ぶ声が分厚いプラスチックに反響した。だんだん息が苦しくなっていく。それでも叫ぶのをやめられ、なく、

 身体がびくっと跳ねて目が開く。暗い中でぼんやり丸い輪が見えて、じっと見つめていると蛍光灯だとわかった。有刺鉄線を巻かれたように身体が痛みに近い痺れを起こしていて、触ってみると鳥肌がざらざらしていて、冷えた指も含めて全部自分の身体ではないように感じた。ゆっくり起き上がる。
 当たり前に、宇宙服なんて着ていない腕が目に入る。髪の間を嫌な汗が伝って、ピヨ彦が揃いで買ってきたルームウェアの首元に染みこんだ。目を閉じるとさっきの星空がちらつく。窓を見ると、ぼんやり光が差しているが確かに真夜中で、カーテンの隙間から星が見えることもない。
 それなのにまだ、ひとりぼっちのような気がする。
 さっきみたいな夢はたまに見る。宇宙へ行ったのは数年前のことで、特に何事もなく遊泳を楽しんでスケジュール通りに帰ってきた。命綱が切れるなんてこともなかった。ピヨ彦に宇宙食のお土産なんかも持って帰ったし、すごいよかったぞ、今度は一緒に行こうな、なんて台詞も言った。
 頭の中が全然落ち着かなくて、膝を抱え込んだ。ぼんやり、隣にある布団の山の輪郭を眺める。ほんの少しだけ規則的に上下するそれが、ちゃんと生きてるのか確かめたくなる。
 ピヨ彦の口元まで覆っている布団をめくって、胸元に手を置く。色違いで同じ素材の手触りの向こうに、じわっと熱がある。熱はオレの手を温めたが、ピヨ彦の胸よりオレの手の脈拍がひどく大きくて、今度は首元に手を添えた。オレの指先、柔らかい皮膚の向こうに、ちゃんと拍動がある。血がめぐっている。ああ、生き物だ、と思う。
 さっき夢に見た無数の視線の発信源に、生き物がいるのかはわからない。ただ、いま隣でピヨ彦が生きているのがどうにもオレを安心させた。一対一だ、空気もいっぱいあるし。
 ピヨ彦の首筋を押さえたまま深呼吸を繰り返していると、もぞりと動いた。薄く開いた目がオレをじっと見ている。オレもじっと見返すと、ピヨ彦の視線がちらりと窓の方に動く。うん、真夜中だよ。
 もう一度オレを見て口を開く。
「どしたの」
「いや……別に、なんか、……起きちゃって」
 オレの返事を受けて、ピヨ彦はゆっくり何度か瞬きをした。時間がゆっくり流れているように思う。「寝てていいよ」と言いたかったが、ピヨ彦だけがオレを、ピヨ彦がオレだけを見ているのが嬉しくて言い出せないでいると、ピヨ彦がオレに話しかけた。
「おなかすいた?」
「は?」
 ピヨ彦がオレの答えを待たずにごろりと寝返りを打って、布団を這い出る。台所に向かうのを身体を捻って目で追いかけることしかできない。ピヨ彦が炊飯器を開けたところで、やっとオレは追いかけるように布団から離れた。
「いや、ピヨ彦、あの……」
「…………」
 ピヨ彦が炊飯器の中をじっと見つめて、保温のボタンを切った。ピーっと高い音が部屋に響く。ピヨ彦は何かに動かされているかのようにしゃもじを握って、炊飯器の中、夕飯の残りの飯を四分割した。
「ん……」
 何か気に食わないような声を喉から出す。4つに分かれたうちの一つをまた小さく分けて、3つにそれぞれペタペタとくっつける。そのまま流れるように、シンクの下から塩の入った容器を取り出した。
「ピヨ彦、待てって」
 オレの言葉を遮るように、蛇口から水が出る。手を濡らしたピヨ彦は塩を手に取って手のひらに擦り込んだ。炊飯器の中を白い手が掬う。
「あつ……」
 確かに昔ピヨ彦のことを珍笛界の暴走特急と評したことはあるが、こんなに言うことを聴いてくれなかったことはない。手の中の飯はみるみる丸い三角形になっていく。オレはシンクの横、水切り皿から適当な皿を抜き取った。ピヨ彦が「ありがとう」と呟いて、できあがった塩にぎりを皿に転がした。
 結局それをもう2回繰り返した。皿の上に3つのおにぎりがある。
 手を洗ったピヨ彦が掛けてあるタオルで手を拭いて、ずるずると床に座り込んだ。追いかけるようにオレも座ると、ピヨ彦はおにぎりを一つ掴んで齧った。
「ジャガーさん、あと食べていいよ」
「お前マジでなんなんだよ」
 ピヨ彦が咀嚼をしながらまたオレをじっと見ている。意味が分からないながらも、おにぎりを一つ掴んで口に運んだ。しょっぱい。保温されまくった米特有の香ばしさが鼻に抜ける。美味い。ピヨ彦がもう一口齧った米を頬に押し込みながら言った。
「え、お腹空いてんじゃないの」
「だから空いてねえって」
「え~……でも、でもさ、食べてんじゃん」
「そりゃ食うよお前が握ったんなら!」
 二人でお互いが咀嚼するのをじっと見ている。一つ食べ終わったピヨ彦が、二つ目に行こうとするオレを見ながら、腕を組んで言った。
「え、夢ぇ!?」
「なにが」
「僕寝ぼけてんのかな?」
「そうだろ」
「助けてって、言ってなかった?」
「それは……夢じゃないかもしんない」
「腹減ったんだ~って」
「それは夢!」
 え~? なんてまた呟きながら眉を顰めている。オレはおにぎりの最後のかけらを口に入れた。
「助けて、は言ったの?」
「…………言った、かもしれない」
「なんかあった?」
「……変な夢見たから」
 ふーん、と言いながら、オレが飲み込み終わるのを眺めている。
「んで、落ち着いたの」
「…………おかげさまで」
 気づけば心臓の音はうるさくなく、手も温まっている。よかったね、なんて言いながらピヨ彦は皿を取って立ち上がり、軽く水で流した。身体の汗も引いて、なんだか急に湿った服が気持ち悪くなってきた。服を脱ぐ。ちょうどデカいあくびをしていたピヨ彦が目を開けると、急にオレが上半身裸になっているのでびっくりしたらしい。
「なにしてんの!?」
「汗かいたから……」
 下も脱ぎはじめたオレを見て、ピヨ彦が押し入れに向かう。
「待ってて、着替え出してあげるよ」
「いや、このまま寝たい、ピヨ彦も脱いでくれ」
「意味わかんないってば!」
 全裸で追いかけるとちょっと逃げるそぶりをするピヨ彦。茶番を終えて布団に追い詰めて、ピヨ彦の服を掴んで捲り上げる。
「……ねえ、やんないよ、眠いから」
「やんなくていい、脱いでほしいだけ」
 ピヨ彦から服を剥ぎ取って放り投げる。居心地悪そうに座るピヨ彦より先に寝転んで、腕を広げる。ピヨ彦は諦めるというか呆れたような感じで、腕の間に収まった。
 汗が乾いてさらりとした肌がいたる所でくっついて、違う生き物の温度を返してくる。オレよりほんの少しだけ体温の低いピヨ彦。その伏せられた瞼の丸みをを見ていると、その辺の普通の人間と何一つ違わないのに、このためだけに生きていていいような、特別なものの気配がする。
 ちいさな声で「おやすみ、ジャガーさん」と聴こえる。ノイズなんて全くない澄んだ高い声。しばらく何回も頭の中で繰り返していると、二の腕に乗せられたピヨ彦の頭がちょっと重くなる。すう、と聴こえる呼吸が深くなる。ゆっくりと張り詰める肺が、重力とともに萎んでまた膨らむ。ぼんやりと、初めて腕枕をしたときのことを思い出した。お互い寝れたもんじゃなかった。あれから何年も経っている。触れることは当たり前になって、いまだって溶けてしまいそうで、でも軽く抱きしめると確かに形がある。それがどうにもくすぐったくなる。
「ピヨ彦、」
 夢の中で呼んでしまったのと同じように、口から名前が流れていく。でも全然苦しくはない。
「好きだよ」
 ピヨ彦は何も答えない。でもそれでいい。オレが勝手に言っているだけの、ただの誓いだった。